此系列記錄的是「青年百億海外圓夢基金計畫」的親歷過程,而非申請流程的攻略或指南。
文中的ゼミ指的是 Seminar,類似台灣的 Lab,因為不知道要怎麼翻譯所以使用日文
步步遠離長泥交流中心(長泥コミュニティセンター),山中的夜色壟罩著看不見路。
樹幹、坡道以及遠處的山巒皆失去輪廓,僅剩下腳步試探般的擦過地面的唰唰聲。沿著步道放下的蠟燭,暖黃的光線潛伏在地面,各自守著周圍的枯葉與鞋尖。
白日裡,我們曾在這裡看畫、搓草繩、烤肉。色彩與歡笑被黑夜收去,最後只剩下這一列貼著地面延伸的微光。
窗外已經亮透,秋日的光越過窗框。那一天的早晨,我睡意朦朧走下樓,寄宿家庭已準備了一桌過分健康的早餐。以作客寄宿他家的人來說,沒能幫上忙多少有些愧疚。
桌上的水煮蔬菜仍帶著一層水氣,鮭魚皮映著一層光亮的油,水煮肉片疊在盤中,切好的水果沿著切口滲出汁水,眼前找不到任何能令人產生罪惡感的食物。清淡的食物將前幾天吃進肚子裡的油鹽一併洗淨,也得以保有清爽的身心開始這一天。
九點半,我們回到福島市民中心集合。接著巴士駛離市區,近處的田地,收割後的短梗貼著土地,日光下泛著淡黃;遠處的山巒一層層疊加,形成壯麗的田野畫。車窗同時播映著兩邊的景色,一邊是向後掠去的樹木,一邊則是車內昏昏欲睡的人臉。
一小時十五分鐘後,巴士停在飯舘村佐須。一棟木造建築坐落於山林之間,門邊掛著「氣まぐれ茶屋ちえこ」的招牌。我們與大黒ゼミ將在這間農家餐廳享用午餐。
門一拉開,煮物的熱氣與木造屋內微暖的氣息迎面而來。室內的桌面已擺滿碗盤。燉煮得入味的蔬菜淺淺浸在淡褐色湯汁裡,涼拌小菜仍帶著脆度,筷子夾起時,細小的水珠順著葉梗滴回碟中。另外還有飯舘村世代流傳的保存食「凍み餅」,在最冷的時節裡反覆凍結與乾燥,並在其中揉入當地稱作「ごんぼっぱ」的植物,外表帶著深沉的草色。牙齒先碰上黏韌的阻力,慢慢嚼開,才漸漸飄出穀物與野草的甜味。
ごんぼっぱ 是 オヤマボクチ 的地方稱呼,類似山牛蒡的一種植物
二〇一一年以前,附近的人經常會到這裡吃飯、唱歌,在一桌家常菜前消磨半日。福島第一核電廠事故發生後,挾帶著大量放射性物質的風雲朝著西北方移動。飯舘村明明距離核電廠有著三十公里,遇上雨雪,空氣中的放射性物質仍隨著水氣落下,隨即沉積在山林、屋瓦與田地之間。因此,飯舘村被列入計畫性避難區域,村子的人們陸續地離開家園,這間茶屋也跟著停業。
直到二〇一七年三月,飯舘村除了長泥地區以外解除避難指示;再過了兩年,店主佐々木千榮子さん,在平成走入令和的那一天,重新開啟了茶屋的大門,希望這裡能再次成為可以隨意走進,坐下來優閒度過中午的地方。
筷子碰著木碗,杯裡的茶水冒著薄煙,小碟子一只只排在桌上。可惜數小時前,我們才剛在各自的寄宿家庭吃完豐盛的早餐。每一道看上去都很費工,的確也十分美味,滿桌人望著滿桌菜,精神上躍躍欲試,胃卻舉起了白旗。
此時,窗外的風倏忽掠過樹梢,枝影沿著桌面飛快越過盤子與杯緣,像有人在無聲地追逐某條看不見的終點線。另一道影子則斜斜穿過整張桌子,最後正好落進杯緣圍出的圓影裡,像一顆從遠方的地方投來的球。
在這片晃動的光影裡,大黒ゼミ將兩位陌生的臉孔推到前面。兩位來自臺北大學,幾天前才剛到福島的交換學生「無聲鈴鹿的老婆」以及「綠間夫人」。兩人簡單自我介紹後便回到座位,人聲重新攏合,還沒有什麼機會認識。
化名:「無聲鈴鹿的老婆」、「綠間夫人」,皆是兩位親自選擇的。
午餐後,巴士開往飯舘村的道の駅「までい館」。大黒ゼミ的學生拿著購物籃,和我們一起為晚上的烤肉採買食材,看似一段樸實的購物行程,但在不遠處,放著一部在台灣超市不太可能見到的機器。
高麗菜被放進檢測裝置,機器的蓋子關上,賣場嘈雜的聲音仍在四處流動。螢幕開始倒計時,等待一陣時間後,螢幕上的數值顯示幾乎為零,放射性物質「未檢出」,低於儀器能夠辨識的劑量。我們幾天前在福島市民中心聽說的那些數據、反覆說述說的「安全」;在這台機器上,幾分鐘的等待、一次開闔、一行讀得到的數值,那些抽象的說法終於有了具體的模樣。
我們對福島的印象,多半是孩提時在電視裡反覆播放的那幾個畫面。然而鏡頭熄滅以後,田中仍隨著四季更迭,貨架也一如往常地擺上新來的貨物,午餐桌上的農作物,也次次被送進儀器中檢測。腦中的畫面停格在那一年,福島卻早已走出影格之外,生活了好一陣子。
至於 Ame 和 Sora,在看完檢測儀器後,在道の駅另一頭,發現當地限定、化身赤べこ的吉伊卡哇後,立刻陷入近乎失控的採購環節。飯舘村的過去與今日,就這麼在同一個空間裡各自忙碌。
離開道の駅,巴士往長泥前進。山影逐漸貼近道路,午後的光線穿過枝枒,明暗地落在車窗上。我們現在正通行的道路,兩年前卻仍立著路障與警衛。
震災以前,長泥有兩百八十一人在此生活。居民之間往來緊密,時常舉辦各種地區活動,並且這裡的花卉栽培尤為興盛,曾有「花の長泥」之稱。
二〇一一年往西北方移動的放射性物質,同樣落在了長泥。翌年七月,飯舘村重新劃分避難區域,而長泥成為村內二十個行政區中,唯一被劃入「歸還困難區域」的地方。原先住在裡面的居民,沒有許可也無法重新回歸家園。直到二〇二三年,長泥的特定復興再生據點區域與長泥曲田公園才解除避難指示,雖仍有部分地區尚未解除,但至少少部分的人們得以回到家園。
下車後,我們走進「花之里長泥環境再生情報廣場(花の里ながどろ環境再生情報ひろば)」。室內牆上,展板依序展示震災以來的種種經過、日常生活中的放射線與長泥的環境再生事業;螢幕中播放著藝人なすび的採訪、插秧與田間生物的影片;旁邊則擺著再生資材製造設施的模型。
長泥地區在核災後開啟了一項新事業。飯舘村在除染所產生的土壤中,取出放射性物質濃度在每公斤五千貝克以下的,經過一系列工序製成「再生資材」,主要用途是墊高農地;並且在上面覆蓋未受到汙染的土壤,製造成可以耕作的田地。
長泥地區使用這裡的模型、影片、栽培結果以及資料,試圖回答諸如,如何處理除染產生的大量土壤、濃度低到什麼程度才能再利用、長年離開的居民是否能夠接受等等,難以被簡單回答的問題,讓人們可以用自己的雙眼與雙腳,站在這片土地看上一回。
展示空間旁邊,則是一座栽培花卉的溫室。門後的空氣相比外頭更加溫暖潮濕,眼鏡與鏡頭一靠近便像要蒙上一層霧。成排的花卉沿著走道延伸至尾端;葉片向光面泛著光亮,背面則沉著濃綠的影子。裡頭一年四季種著不同的花,交流空間也能取下花瓣與葉片,壓平做成押花卡片。溫室中的小小片土地,使得名稱「花の長泥」得以再次展現生機。
走出溫室,日光已然不再上方。我們轉往一旁的長泥交流中心。震災以前,當地居民每年皆會舉辦地區運動會;隨著避難開始,家家戶戶散往各地,這項傳統活動也自然而然的消失。
然而近幾年,大黒ゼミ與居民重新開始舉辦了這些活動。另外,他們也參與村民食堂、Wakuwaku 市集(ワクワクマルシェ)等企劃,維繫起原本地區的人際關係。
參與這次運動的人群中,有著長泥的居民、大黒ゼミ的學生們,以及幾個從台灣來,規則聽的一知半解的我們。眾人分組競技,也是讓我體驗到過去只在動漫中看過,屬於日本的運動會了。
第一個項目是大繩跳,粗繩劃過地面,啪、啪地揚起一小層灰。幾個人擠在中央喊著拍子一起跳起,但總有人早了半拍或晚了半拍,繩子纏上腳踝,隊形當場潰散。
第二個項目則是接力傳球,大家合力將一顆大彈力球,過肩向後傳遞。球在人群之間一路遞過去,手掌拍在球面上的聲音又急又亂。讓我想起了小時候看劇場時,劇組為了打破第四面牆,而在觀眾席中人人伸手傳遞的巨大的氣球。
到了下一個,三人四腳項目,布帶把三個人的腳踝束成一排,而我是站在中間的那一個。出發前喊得氣勢萬鈞,真正跨出第一步,鞋底便在地面磨成一團,差點一起撲倒在地。
最難的項目莫過於搓草繩了。一條條乾草抓在手裡,粗糙而蓬鬆,細屑黏在指縫,帶著曬過日頭的氣味。對於老一輩的當地居民可說是駕輕就熟,將乾草分成兩束,在手掌之中一捻、一壓,纖維便會緊緊咬住,原本蓬鬆的乾草逐漸合成一股。輪到我時,手與草水火不合,堅持互不合作。搓了半天,別人的繩子已經垂到地面,我手裡只剩一團看不出用途的球狀物體,最後僅為我們隊伍提供了大約 5 公分的長度。
十二年後的今天,不同年紀、不同出生地的我們,站在這一塊土地上。笑聲散落在場地各處,草屑與汗水落在衣服與地板上。那些曾經中斷過的歡笑聲一點點地回到了這個地方。
競賽告一段落,接著是萬眾(我)矚目的烤肉大會。遠處的山脈輪廓已經逐漸模糊,炭火在漸藍的暮色裡一點點亮起。烤網上擺滿中午從道の駅買來的肉片與蔬菜,油脂順著烤肉架聚成透明的油滴落入炭中,火舌猛地躥起。旁邊烤起披薩。白煙帶著醬汁與焦香衝向人群,風向一變,所有人便瞇著眼往四處逃竄。
烤飯糰表面被火燒出一層薄薄的焦色,醬油的香氣黏在米粒上,咬下去外脆內軟,好吃得令人立刻忘記中午時才說著自己吃不下。
跑跳了一整天,台灣的大家逐漸失去四處社交的精力,自然地坐在一旁聚成小團體。而無聲鈴鹿的老婆、綠間夫人也坐了過來,我們才終於有機會和兩人聊上幾句。
對無聲鈴鹿的老婆的第一印象,是外放、活潑,講話幽默風趣。其中最有印象的一句話,是她忽然對我說:「你把鼻子以下遮住,很像啾啾鞋耶。」我愣了一下,隨即笑了出來。這究竟是什麼樣的形容,但偏偏再想一下,好像又不能完全反駁。
而綠間夫人則讓人感覺沉穩些,說話帶著讓人安心的節奏感,不過仍十分外向。聊著聊著,才知道他是台灣職棒──統一獅的球迷。而我則支持中信兄弟,沒想到到了國外,與同為台灣人最先找到的共同語言之一仍是中華職棒。台灣,棒球,一起強大。
天色全暗之後,大黒ゼミ拿出了為晚間活動準備的手作燈籠。薄紙沿著稜線折成四面體,下方挖空。三個人一組,恰好一人一面,在紙上寫下各自的願望。筆尖壓過去,紙面微微凹下,從背面還看得見字跡滲出的深色。
四周盡是森林,不能像平溪一樣升火放天燈,因此便在底部放入一盞小燈放置於地。冷白的燈光隔著紙變成暖黃,手掌一靠近,骨節與指縫也被照出模糊的紅光。
我寫下了一句:「希望能順利錄取大學院。」那時距離考試還有將近一年。短短一句話卻佔滿了一整面,和另外兩人的願望一起,被摺痕分在燈籠不同的面上。
大家捧著自己的燈籠離開交流中心,沿著擺滿蠟燭的道路,往沒有路燈的遠方走去。夜裡的地面難辨,鞋底採到碎石,耳朵才意識到走偏了道路。和蠟燭一同放置在地上的燈籠,閃耀著眾人心中的願望與夢想,也驅散了前方的黑暗與不確定。
步道盡頭有一座木台。眾人站到台前拍了合照。收拾時,大家轉而討論著隔天的休息日,大黒ゼミ的學伴要帶著各自的小組出遊。大家在原地七嘴八舌地討論要去哪裡、要不要一起行動,方才那點幽靜很快便隨著期待而消散。
巴士載著我們回到最初入住的飯店。晚上八點四十分,需要洗衣服的人在大廳集合,洗衣大隊再次集結。
從飯店走至投幣式洗衣店,來回約莫三十分鐘,衣服丟進去後,還得待著洗衣與烘衣的時間流過。慘白的日光燈、烘衣機吐出的熱氣,有人靠著椅背打盹,貪食的人(還是我)則推著門出去,到對面的全家或後方的藥妝店買東西吃。玻璃門開了又關,夜裡的涼風灌入洗衣店,椅子上的人縮了縮,繼續等待機器上的倒計時。
滾筒持續滾動。白天沾上的泥土、炭火煙味, 混進水與洗劑之中,一件白色上衣貼著玻璃皺成一團,下一秒又被深色衣物捲走。衣角黏著一小截搓草繩時留下的草屑,每當以為它已沉進衣物深處,轉過一圈,又會重新跑回玻璃前。
有人問了還剩多久。我抬頭看了一眼。
二十幾分鐘。
滾筒又轉了一圈。那一小截草屑再次回到眼前。
日本語バージョン
本シリーズは「青年百億海外円夢基金計画」の実体験を綴ったものであり、申請手続きの攻略や指南ではありません。
このシリーズの日本語版は、すべてAIによる翻訳です(なにしろ筆者の日本語が壊滅的なので)。
一歩、また一歩と長泥コミュニティセンターから遠ざかるにつれ、山の夜闇に包まれ、道は見えなくなっていった。
木々の幹も、坂道も、遠くの山並みも輪郭を失い、残るのは、足元を探るように靴が地面を擦る、さっ、さっという音だけだった。歩道に沿って置かれたろうそくの暖かな黄色い光が地面に潜み、それぞれ周囲の枯れ葉と靴先を照らしている。
昼間、私たちはここで絵を見て、縄をない、バーベキューをした。色彩と笑い声は夜に呑み込まれ、最後に残ったのは、地面すれすれに連なっていく微かな光だけだった。
窓の外はすっかり明るくなり、秋の光が窓枠を越えて差し込んでいた。その朝、眠気を引きずったまま階下へ降りると、ホームステイ先の家族が、健康的すぎるほど健康的な朝食を一卓いっぱいに用意してくれていた。泊めてもらっている身として、ほとんど何も手伝えなかったことに、少し申し訳なさを覚えた。
テーブルの茹で野菜にはまだ薄く水気が残り、鮭の皮には油がつややかに光っていた。茹でた肉が皿に重ねられ、切った果物からは切り口に沿って果汁がにじんでいる。目の前には、罪悪感を抱かせそうな食べ物が一つも見当たらない。あっさりした料理が、ここ数日で腹に入れた油気と塩気をまとめて洗い流してくれるようで、心も体もすっきりしたまま一日を始められた。
九時半、私たちは福島市民センターに戻って集合した。やがてバスは市街地を離れ、近くの田畑では、刈り取り後の短い切り株が地面に張りつき、日差しの下で淡い黄色を帯びていた。遠くの山々は幾重にも重なり、壮麗な田園の絵を形づくっている。車窓には二つの景色が同時に流れていた。一方には後ろへ飛び去っていく木々、もう一方には車内でうとうとしている人々の顔。
一時間十五分後、バスは飯舘村佐須に停まった。山林の中に一軒の木造建築がたたずみ、入口の脇には「気まぐれ茶屋ちえこ」の看板が掛かっている。私たちは大黒ゼミと一緒に、この農家レストランで昼食をいただくことになっていた。
戸を開けると、煮物の湯気と、木造の室内にこもるほのかな暖かさが一気に押し寄せてきた。中のテーブルには、すでに器や皿が所狭しと並んでいる。味の染みた煮野菜は薄茶色のつゆに浅く浸かり、和え物にはまだしゃきっとした歯ごたえが残っていた。箸で持ち上げると、小さな水滴が葉の茎を伝って小皿へ落ちていく。ほかにも、飯舘村で代々受け継がれてきた保存食「凍み餅」があった。最も寒い時期に凍結と乾燥を繰り返し、その中には地元で「ごんぼっぱ」と呼ばれる植物が練り込まれていて、表面は深い草色を帯びている。まず歯に、粘り強い弾力が返ってくる。ゆっくり噛みほぐしていくと、やがて穀物と野草の甘みがじわりと広がってきた。
ごんぼっぱはオヤマボクチの地方名で、山ごぼうに似た植物の一種。
二〇一一年以前、近所の人々はよくここへ食事や歌を楽しみに訪れ、家庭料理の並ぶ食卓を囲んで半日を過ごしていた。福島第一原子力発電所の事故が起きると、大量の放射性物質を含んだ風と雲が北西へ移動した。飯舘村は原発から三十キロも離れているにもかかわらず、雨や雪に見舞われると、大気中の放射性物質は水分とともに降下し、山林や屋根、田畑に沈着した。そのため飯舘村は計画的避難区域に指定され、村の人々は次々と故郷を離れ、この茶屋も休業することになった。
そして二〇一七年三月、飯舘村では長泥地区を除いて避難指示が解除された。それから二年後、店主の佐々木千榮子さんは、平成から令和へ移り変わったその日に、再び茶屋の扉を開いた。ここがもう一度、誰でも気軽に入ってきて、座ってのんびり昼の時間を過ごせる場所になってほしいと願って。
箸が木の椀に触れ、湯のみのお茶からは薄い湯気が立ち、小皿が一つ、また一つとテーブルに並んでいた。惜しむらくは、ほんの数時間前に、私たちはそれぞれのホームステイ先でたっぷり朝食を食べたばかりだったことだ。どの料理も手間がかかっているように見え、実際どれもとてもおいしかった。満席の人々が満卓の料理を前に、気持ちだけはやる気満々なのに、胃袋は白旗を上げていた。
そのとき、窓の外を風がさっと梢をかすめ、枝の影がテーブルの上を走り、皿やカップの縁を素早く横切っていった。まるで誰かが、見えないゴールラインを音もなく追いかけているようだった。もう一本の影はテーブル全体を斜めに横切り、最後にはちょうどカップの縁がつくる丸い影の中へ落ちた。遠くから投げ込まれた一つのボールのように。
揺れる光と影の中で、大黒ゼミが二人の見知らぬ顔を前へ押し出した。二人は台北大学から来た交換留学生で、数日前に福島へ着いたばかりの「サイレンススズカの嫁」と「緑間夫人」。簡単に自己紹介をすると二人は席へ戻り、周囲の話し声もまたひとまとまりになっていった。この時点では、まだほとんど知り合う機会はなかった。
仮名:「サイレンススズカの嫁」「緑間夫人」。どちらも本人たちが自分で選んだもの。
昼食後、バスは飯舘村の道の駅「までい館」へ向かった。大黒ゼミの学生たちは買い物かごを手に、私たちと一緒に夜のバーベキュー用の食材を買い出していた。一見すると素朴な買い物のひとときだが、少し離れたところには、台湾のスーパーではまず見かけないような機械が置かれていた。
キャベツが検査装置に入れられ、機械のふたが閉じられる。売り場のざわめきは、その間も周囲を流れ続けていた。画面でカウントダウンが始まり、しばらく待つと、表示された数値はほとんどゼロ。放射性物質は「不検出」、つまり機器で識別できる線量を下回っていた。数日前、福島市民センターで聞いたさまざまな数値や、繰り返し語られていた「安全」という言葉。ここでは、数分間待ち、一度ふたを開閉し、読み取れる一行の数値を見る。その一連の動作によって、抽象的だった言葉がようやく具体的な姿を持った。
私たちが抱く福島の印象は、たいてい子どもの頃、テレビで何度も繰り返し流れていたいくつかの映像からできている。けれどカメラが止まったあとも、田畑では季節が巡り、棚にはいつも通り新しい商品が並び、昼食の食卓に上がる農作物も、そのたびに機器へ入れられて検査されてきた。頭の中の映像はあの年で静止したままでも、福島はとっくにそのフレームの外へ歩み出し、長い時間を暮らしてきた。
一方、Ame と Sora は検査機器を見終えると、道の駅の反対側で、赤べこ姿になったご当地限定のちいかわを発見し、たちまちほとんど制御不能の買い物タイムへ突入した。飯舘村の過去と現在は、こうして同じ空間の中で、それぞれ別々に忙しく動いていた。
道の駅を出ると、バスは長泥へ向かった。山の影がだんだん道路へ近づき、午後の光が枝の間を抜けて、明暗をつくりながら車窓に落ちる。いま私たちが通っているこの道には、わずか二年前までバリケードと警備員が立っていた。
震災以前、長泥には二百八十一人が暮らしていた。住民同士のつながりは深く、さまざまな地域行事が頻繁に開かれていた。また、この地では花の栽培がとりわけ盛んで、かつて「花の長泥」と呼ばれていた。
二〇一一年、北西へ流れた放射性物質は、長泥にも同じように降り注いだ。翌年七月、飯舘村では避難区域が再編され、長泥は村内二十の行政区のうち、唯一「帰還困難区域」に指定された地区となった。もともとここに住んでいた住民でさえ、許可なしには故郷へ戻ることができなかった。二〇二三年になってようやく、長泥の特定復興再生拠点区域と長泥曲田公園の避難指示が解除された。現在もなお解除されていない区域は残るものの、少なくとも多くの人々が故郷へ戻れるようになった。
バスを降りた私たちは、「花の里ながどろ環境再生情報ひろば」へ入った。室内の壁には、震災以降の経緯、日常生活の中の放射線、長泥の環境再生事業について、パネルが順に展示されている。画面では、タレントのなすびさんのインタビューや、田植え、田んぼの生き物を紹介する映像が流れ、脇には再生資材化施設の模型が置かれていた。
長泥地区では、原発事故のあとに新たな事業が始まった。飯舘村では、除染によって生じた土壌のうち、放射性物質濃度が一キログラム当たり五千ベクレル以下のものを取り出し、一連の工程を経て「再生資材」にする。主な用途は農地のかさ上げで、その上に汚染されていない土を覆い、耕作できる土地へと整えていく。
長泥地区では、ここにある模型や映像、栽培の結果、資料を用いながら、除染で生じた大量の土をどう処理するのか、どの程度まで濃度が低ければ再利用できるのか、長年この土地を離れていた住民がそれを受け入れられるのか、といった簡単には答えの出ない問いに向き合おうとしている。人々が自分の目と自分の足でこの土地に立ち、一度確かめられるようにするために。
展示スペースの隣には、花を育てる温室がある。扉の向こうの空気は外よりも暖かく湿っていて、眼鏡やカメラのレンズを近づけると、すぐに薄く曇りそうになる。花々は列をつくって通路の奥まで続き、葉の光を受ける面はつややかに輝き、裏側には濃い緑の影が沈んでいる。中では一年を通してさまざまな花が育てられ、交流スペースでは花びらや葉を摘み、平らに押して押し花カードをつくることもできる。温室の中の小さな一画によって、「花の長泥」という名は、もう一度その生命力を見せ始めていた。
温室を出るころには、太陽はもう頭上にはなかった。私たちは隣の長泥交流センターへ向かった。震災以前、地元の住民たちは毎年、地区の運動会を開いていた。しかし避難が始まり、各家庭が各地へ散っていくと、この伝統行事も自然と姿を消した。
それでもここ数年、大黒ゼミと住民たちは、こうした行事をもう一度開くようになった。また、村民食堂やワクワクマルシェなどの企画にも関わり、もともと地域にあった人と人とのつながりをつないでいる。
今回の運動会に参加していたのは、長泥の住民、大黒ゼミの学生たち、そして台湾から来て、ルールを半分くらいしか理解していない私たち数人だった。みんなでチームに分かれて競技に参加し、これまでアニメの中でしか見たことのなかった、日本の運動会を実際に体験することになった。
最初の種目は大縄跳び。太い縄が地面を打つたび、ぱん、ぱん、と小さく土ぼこりが舞う。何人かが中央にぎゅっと集まり、掛け声に合わせて一斉に跳ぶのだが、必ず誰かが半拍早かったり、半拍遅かったりする。縄が足首に絡み、隊列はその場で崩壊した。
二つ目の種目はボール送り。みんなで大きな弾むボールを、肩越しに後ろへ送っていく。ボールは人の列を次々に渡っていき、手のひらが球面を叩く音は速く、ばらばらに響く。子どもの頃に劇場で見た、第四の壁を壊すために、観客席のみんなが手を伸ばして巨大な風船を送り合っていた光景を思い出した。
次は三人四脚。布の帯で三人の足首を横一列につなぎ、私は真ん中に立った。スタート前は威勢よく声を上げていたのに、いざ最初の一歩を踏み出すと、靴底が地面でもつれ合い、三人まとめて前へ倒れそうになった。
最も難しかった種目は、何といっても縄ないだった。乾いた藁を何本も手に取ると、ざらついてふわふわしていて、細かな屑が指の間に入り込み、日に干された匂いがする。年配の地元住民にとってはお手の物で、藁を二束に分け、手のひらの中でひねり、押さえると、繊維同士がしっかり噛み合い、ふわりとしていた藁が少しずつ一本の縄になっていく。ところが私の番になると、手と藁は犬猿の仲で、最後まで協力する気配がなかった。しばらく格闘しているうちに、ほかの人の縄はもう地面まで垂れているのに、私の手元に残ったのは用途不明の球状物体だけ。最終的に私がチームへ貢献できた長さは、約5センチだった。
十二年後の今日、年齢も生まれた場所も違う私たちが、この土地の上に立っていた。笑い声は会場のあちこちに散らばり、藁屑と汗が服や床に落ちていく。かつて途切れてしまった笑い声が、少しずつこの場所へ戻ってきていた。
競技がひと段落すると、次はいよいよ万人(私)注目のバーベキュー大会。遠くの山並みはすでに少しずつ輪郭を失い、青みを増していく夕暮れの中で、炭火がぽつぽつと明るくなり始めていた。網の上には、昼に道の駅で買った肉や野菜がいっぱいに並ぶ。脂が焼き網を伝って透明な雫になり、炭の中へ落ちると、炎が勢いよく立ち上がった。隣ではピザも焼かれている。白い煙がソースと焦げた香りをまとって人の群れへ押し寄せ、風向きが変わるたび、みんな目を細めながら四方へ逃げ散った。
焼きおにぎりの表面には火で薄い焦げ色がつき、醤油の香りが米粒にまとわりついている。かじると外は香ばしく、中はやわらかい。昼にはあれほど「もう食べられない」と言っていたことを、すぐに忘れてしまうほどおいしかった。
一日中走ったり跳んだりして、台湾組のみんなはだんだん周囲と交流する元気を失い、自然と端のほうに座って小さな輪になった。そこへサイレンススズカの嫁と緑間夫人も座りに来て、私たちはようやく二人と少し話す機会を得た。
サイレンススズカの嫁への第一印象は、明るく活発で、話し方もユーモアがあっておもしろい人、というものだった。中でも一番印象に残っているのは、彼女が突然私に言った一言だ。「鼻から下を隠すと、啾啾鞋にすごく似てるね。」私は一瞬固まり、そのあとすぐ笑ってしまった。いったいどういうたとえなんだ。でも考え直してみると、なぜか完全には否定できない。
一方、緑間夫人はもう少し落ち着いた印象で、話し方にも人を安心させるようなリズムがあった。それでも十分に社交的だ。話しているうちに、彼が台湾プロ野球――統一ライオンズのファンだと知った。私は中信兄弟を応援している。まさか海外まで来て、同じ台湾人同士で最初に見つける共通言語の一つが、やはり中華職棒だとは思わなかった。台湾、野球、ともに強く。
空が完全に暗くなると、大黒ゼミが夜の活動のために用意していた手作りの灯籠を取り出した。薄い紙を稜線に沿って折って四面体にし、下側は空洞になっている。三人一組で、ちょうど一人一面ずつ、それぞれの願いを紙に書き込んだ。ペン先を押しつけると紙がわずかにへこみ、裏側からも文字の濃いにじみが見えた。
周囲は一面の森で、平渓のように火をつけて天灯を空へ飛ばすことはできない。そのため底に小さな灯りを入れ、地面に置くことになった。冷たい白色の光は紙を通すと暖かな黄色に変わり、手のひらを近づければ、関節や指の間までぼんやり赤く透けて見えた。
私は一言、「大学院に合格できますように」と書いた。そのとき、試験まではまだ一年近く残っていた。短い一文なのに一面を丸ごと埋め尽くし、ほかの二人の願いと一緒に、折り目によって灯籠の別々の面へ分けられていた。
みんな自分の灯籠を抱えて交流センターを出て、ろうそくが並ぶ道に沿い、街灯のない遠くへ歩いていった。夜の地面は見分けにくく、靴底が小石を踏んで初めて、耳が道を外れたことに気づかせてくれる。ろうそくと一緒に地面へ置かれた灯籠は、みんなの心にある願いと夢を輝かせながら、前方の暗闇と不確かさも追い払っていた。
歩道の終わりには木の台があった。みんなでその前に立ち、集合写真を撮った。片づけを始めるころには、話題は翌日の休日へ移っていた。大黒ゼミのバディたちが、それぞれのグループを連れて出かけることになっている。どこへ行くのか、一緒に動くのか、みんなその場で口々に話し始め、さっきまでの静けさは、期待とともにあっという間に消えていった。
バスは私たちを、最初に泊まっていたホテルまで送り戻した。夜八時四十分、洗濯が必要な人はロビーに集合。洗濯隊が再び集結した。
ホテルからコインランドリーまでは往復でおよそ三十分。服を放り込んだあとも、洗濯と乾燥が終わるまで、その時間が過ぎるのを待たなければならない。青白い蛍光灯、乾燥機から吐き出される熱気。椅子の背にもたれてうとうとする人もいれば、食いしん坊(やっぱり私)は扉を押して外へ出て、向かいのファミリーマートや裏手のドラッグストアへ食べ物を買いに行く。ガラス扉が開いては閉まり、夜の涼しい風がランドリーへ吹き込むたび、椅子に座る人たちは少し身を縮め、そのまま機械のカウントダウンを待ち続けた。
ドラムは回り続ける。昼間についた泥や炭火の煙の匂いが、水と洗剤の中へ混ざっていく。白い上着がガラスに貼りついてくしゃくしゃになり、次の瞬間には濃い色の衣類に巻き込まれて消える。服の裾には、縄ないのときに残った小さな藁屑が一本くっついていた。もう衣類の奥へ沈んだかと思うたび、一周回って、またガラスの前へ戻ってくる。
誰かが、あとどれくらいかと聞いた。私は顔を上げて一度見た。
二十数分。
ドラムがまた一周した。あの小さな藁屑が、再び目の前へ戻ってきた。
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大家好,可以叫我鴕鳥。現為九州大學研究生。喜歡看電影、讀小說、偶爾去沒去過的地方走走。鴕鳥這個名字有兩個意思。一是跑得最快的兩足動物,一是不願正視現實的人。仍然不確定自己是哪一個。
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